Message from Masa

パネリスト各位

 1939年、イラストレイテッドの前身ともなったナシュナルゴルフレビュー誌がパネリスト17名による初の世界TOP100コースを紹介した時、リストに入れなかった名門から「倶楽部の権威を損なう行為」と、その反発は凄いものでした。

以来、1979年までGOLF Magazine, Digestがベストコースを発表するまで、専門家たちによるコース評価は閉ざされた時代が続いたのです。

Magazineが79年に発表した世界ベスト50コースのリストでは日本からは霞ヶ関、フェニックスCC(宮崎)の2コースで、それは国際大会が行われた会場コースとしてPGAプロからの投票があったからです。

廣野、川奈すらもプレーされた方は僅かで規定投票数を満たしていませんでした。それほど米国ゴルフ界では日本のコースはまだ未知の世界だったのです。

私がMagazineのTOP100コース選定委員会の事務方として勤め始めたのは89年のことでした。当時はTom Doakが選考委員長で、私は彼の右腕として欧州、アジア地区のノミネートコース作成の担当を仰せつかりました。

ところが欧州はともかく、日本人でありながら在米にあった当時の私には日本のコース事情がまったく把握しきれておらず、JGAを通じて日本人コース設計家及びジャーナリストを紹介して頂き、彼等に日本のTOP15を選んで頂く方法を選びました。

ところが驚いたことに関東の方は東日本のみ、関西の方は西日本を主に選出され、日本全体のTOP15にはならなかった経緯がございます。関東圏では廣野、鳴尾も訪問経験がない方が多く、関西圏では東京はもちろんのこと、我孫子、相模、川奈までもそのリストに加えていない方もいらっしゃいました。

当時の日本はバブルの絶頂期、日本のゴルフダイジェストやマガジンの関係者の方から送って頂いたコースリストも戦前からの名門は少なく、バブリーなコースばかりが多かった記憶がございます。

私は日本の方にも私どもMagazineの世界コースランキングに興味を持って頂きたく、当時日本人パネリスト2人を7名に増やし、私と共に彼等にはそのプロモート的役割をして頂こうと考えました。

これは一定の成功を収めましたが、反面、彼等は自らがビジネス上で関わるゴルフ場を強く私どもに推薦され、日本を訪問するパネリスト達から「何故にこのようなコースをノミネートに加えたのだ!」との強いお叱りを受ける結果ともなったのです。

あれから20年もの歳月が経ち、日本からも多くの方が世界中の名コースを廻られる時代を迎え、私のコース論説や著書にも強い関心を持って頂くようになりました。日本人のゴルフコースへの見識は20数年前とははるかに進歩されてきたことは言うまでもありません。

その一番の要因はバブルの負債から、誰もが何が正しいのか?の疑問を持たれていたことに他なりません。その疑問は今も続いていることでしょう。

チョイス誌などのコースランキングに不満や反論を持たれることは、それが結果的に個人の誤りであったとしても、意見を述べる、一票を投じることへの責任は、その方のコース評価への明日を築くことになるはずです。

この度、事務局を担当されて下さった中村様、上田様のご尽力により、日本のTOP50を選定する為の「MASA NISHIJIMA GOLF COURSE ACADEMY」が設立されたことは、これまでの疑問を払拭されるに相応しい道標となってくれることを強く期待します。

発表された我々のコースランキングの結果において、それが自らの投じた評価よりも高かろう低かろうとも、それは全員が投じた一票ごとのアベレージ(平均得点)であることをご理解下さい。

そしてこのランキングリスト及びノミネートリストの中で、まだプレーされていないコースがあるならば、ぜひその機会をお持ちになられて下さい。その好奇心こそが一票に責任を持つパネリストとして大事な経験になるはずです。

Best Regards
MASA NISHIJIMA